Jリーグ関連の記事を掲載します。

ジーコJapan  2020/06/07(日)
あの一言-  2020/06/07(日)
あの一言-27 ベンゲル   2020/06/06(土)
松田 直樹  2020/06/05(金)
あの一言-26  2020/06/05(金)
あの一言-25 中山  2020/06/04(木)
横浜フリューゲルス  2020/06/03(水)
あの一言-24 前田  2020/06/03(水)


ジーコJapan

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 ジーコジャパン(2006年9月〜2006年6月)

2006ワールドカップ ドイツ大会 

2002年7月22日、フィリップ・トルシエの後任として、世界のスーパースターとして名高いジーコが日本代表監督に就任。

メンバーは4年前の日韓大会当時20歳代前半だった選手達が中心となり、平均年齢は27.4歳
 川口能活・楢崎正剛・小野伸二・中田英寿は3大会連続。前回落選の中村俊輔・高原直泰・中澤佑二らが選出された。

2002日韓W杯がベスト16進出、中心メンバーが円熟を迎える年齢という事で期待された日本代表であったが、結果的には0勝3敗に終わった。

日本 1-3 オーストラリア 

前半に中村俊輔のあげたクロスが、そのままゴールするラッキーな形で先制。

後半に入り、長身選手を投入したオーストラリアがパワープレーを仕掛け、日本は自陣ゴール前で耐える時間が続く。

日本は何度か訪れたカウンターの絶好機を決めきれず

後半39分ロングスローのこぼれ球をケーヒルに決められ同点に追いつかれた。集中の切れた日本は5分後、8分後にもゴールを許し、1-3で逆転負け。 

日本 0-0 クロアチア

ともに初戦を落とした負けられない者同士の戦い。

日本は前半21分にPKを与えたが、GK川口のファインセーブでピンチを逃れた。

後半6分に加地亮がオーバーラップから決定機を作ったが、柳沢敦が至近距離のシュートを外してしまった。       

その後も両チーム無得点のままスコアレスドロー

日本 1-4 ブラジル 日本が決勝TMへ進出するためには「2点差以上の勝利」必要

前半34分、ゴール前に抜け出した玉田圭司が豪快なシュートを決めて先制。

前半ロスタイムにロナウドに同点ゴールを許し、後半8分にはジュニーニョ・ペルナンブカーノに無回転ミドルシュートを決められ逆転される。その後も2点を追加され、1-4で敗れて2大会連続の決勝トーナメント進出はならなかった。

忘れられない光景

試合終了後、ピッチに仰向けに倒れたままの中田を労ったのは、キャプテン宮本とチームスタッフ、ブラジル代表のアドリアーノ(パルマ時代の同僚)だけだった。まとまれきれなかったチームの現状を語っていた。

ブラジル戦から10日後の7月3日、日本サッカーを牽引していた中田英寿が29歳の若さで現役引退を表明しブラジル戦がプロサッカー選手として最後の試合となった。

引退の理由にケガは関係なく、引退したのはサッカーを好きな部分が長きに渡って楽しめなくなったからと後のインタビューで答えている。
 
Date: 2020/06/07(日)


あの一言-

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 《サッカー、あのときの一言 》 ジーコ監督 W杯メンバー発表 5月30日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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スピーカーから流れるジーコ監督の声。会場を埋めた報道陣が全神経を集中させた。ホテルの大会場で開かれた06年W杯ドイツ大会の日本代表メンバー発表。次々と名前が読み上げられる。最後に差し掛かった。

「ヤナギサ〜ワ、タマ〜ダ、マキ」<

直後に報道陣から「おぉ〜」と嘆声が漏れた。


淡々と23人を読み上げたジーコ監督は「おぉ〜」の声を聞いた後、一瞬だけ目線を上げて会場の雰囲気を確認。再び視線を落とし、メンバーが書かれた紙をジャケットの内ポケットにしまった。

「サプライズ・マキ」誕生の瞬間だ。8年前のカズ落選、4年前の俊輔落選に次ぐ3大会連続の衝撃。会場で驚いたのは、報道陣だけではない。実は、それまでの代表発表は、前日までに監督がメンバーを日本協会に伝えていた。日本協会は、それぞれ選手の会見準備などもあり、前日夜には秘密厳守を条件に所属クラブに通達した。同時に、発表会場で配るW杯メンバーのプレスリリースを極秘裏に用意する。

しかしジーコ監督は「選ばれない選手もいる。最後まで考えたい選手もいる。事前に漏らすのはセレソン(代表選手)に失礼だ」と、23人を日本協会に渡さなかった。

そのため、日本協会は会見場の隣にもう1部屋借りて急きょ事務局を設け、コピー機を用意し、スピーカーから流れるジーコ監督の声を拾いながら、リリースを作成した。この急造事務局でも「おぉ〜」の声が漏れたという。

ジーコ監督は、最後まで久保竜彦を呼びたかった。群を抜くバネと一気に爆発する瞬間スピード、あり得ない体勢でも左足で強烈なシュートが打てて、頭2つ抜け出るジャンプ力も魅力だった。

それだけに、腰痛や両足首痛などの負傷に苦しむエースをどうするか。指揮官は最後の最後まで悩んだ結果、久保と背格好が似ていて、この年に調子を上げていた巻誠一郎を選んだ。「サプライズ・マキ」の誕生だった。

Date: 2020/06/07(日)


あの一言-27 ベンゲル 

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 《サッカー、あのときの一言 》 「サッカーは表現力の芸術」 5月29日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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「サッカーは表現力の芸術であり続けないといけない」 アーセン・ベンゲル

19年10月24日。元アーセナル監督のアーセン・ベンゲル氏(70)が日本で行った講演会で、今後のサッカー界について語った際の一言だ。

ベンゲル氏は現代サッカーについて「テクニックとフィジカルはトップレベルに達している」と口にし、「忘れてはいけないのはクリエーティビティーではないか」と訴えた。

創造性あふれるプレーをする選手が解雇されたり、メンバー外となる姿を何度も目にしてきたといい「フィジカルがあまりにも強くなって、クリエーティブが殺されるのは非常に残念です」。そして、冒頭の言葉を述べた。

15年ぶりの来日となった講演会には、興味深い話がいくつもあった。同席した元日本代表監督の岡田武史氏からアーセナルの監督時代について問われた際の返答には、トップアスリートを成功に導く指揮官としてのポリシーが垣間見えた。 「トップレベルのアスリートたちにモチベーションを与えることが自分たちの仕事ではなく、各自が持っている目標に向かって、どういう風にアプローチすれば、その選手の理想像に近づけるのかを助けるだけ」

トップ選手は自身の思い描く目標と現時点での差を把握し、どう取り組めばいいかを理解して行動することができると語り「選手が内面でどうなりたいと思っているかを、理解することが大事だと思います」と説いた。

95年から約2年間は名古屋の指揮官としてJリーグも経験したベンゲル氏。昨年には日本での活動において吉本興業とマネジメント契約も結んでおり、今後の日本サッカー界との関わりにも注目していきたい。

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アーセン・ベンゲル 国籍:フランス

 クラブ:1969-1973 ムツィグ  
      1973-1975 ミュルーズ     56 (4)
      1975-1978 ASPVストラスブール
      1978-1981 RCストラスブール  11 (0)

 監 督: 1981–1983 RCストラスブール(ユース)
      1983–1984 カンヌ(アシスタントコーチ)
      1984–1987 ナンシー 
      1987–1994 ASモナコ
      1995–1996 名古屋グランパスエイト   🏆 1995 天皇杯優勝
      1996-2018 アーセナル
Date: 2020/06/06(土)


松田 直樹

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突然の死

同年8月2日9時58分頃、松本市の梓川ふるさと公園にて同チームの練習中に突然倒れ、心肺停止の状態で信州大学医学部附属病院高度救命センターに緊急搬送された。病名は「急性心筋梗塞」と発表。補助循環装置(PCPS)を付け、途中心拍が微弱ながら戻り、STが上昇していたという。意識を取り戻すことはなく、8月4日13時6分頃、同病院で34歳で死去。

スペインのセビージャでは松田の死を大きく報道し、国営放送TVEではゴールデンタイムのニュース番組で報じた。死去当日に行われたスペイン親善試合アントニオ・プエルタ杯では、スペイン代表のアントニオ・プエルタ、心臓発作で亡くなったエスパニョールの主将ダニ・ハルケと共に松田の写真も掲示された。また国際サッカー連盟会長ゼップ・ブラッターは「日本代表の伝説的なディフェンダー(the legendary defender of the national team of Japan)」と評し、哀悼のメッセージを贈った。

横浜F・マリノスが松田の背番号「3」を永久欠番とすることを発表 したことに対し、松本山雅は3番を背負いたい選手が現れるのを待つとして永久欠番にはしなかったが、その後の2014年にマリノス時代にチームメイトだった田中隼磨が背番号「3」を付けることとなった。

トレードマーク(ヘアバンド)

日韓W杯と前後して試合中に松田がつけていたヘアバンドが世間で流行する現象が起きた。当時はヘアゴムを大きな輪にしてはめていただけであったが、その後アディダスにより製作されており、背番号3と共に松田を象徴する代名詞と言われた。。

Date: 2020/06/05(金)


あの一言-26

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 《サッカー、あのときの一言 》 「本当にサッカーって最高」 5月24日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高な所を見せたいのでこれからも続けさせてください。」 松田直樹

10年12月4日、ホーム大宮アルディージャ戦が横浜F・マリノスのラストマッチだったDF松田直樹さんは、大勢のサポーターが残る日産スタジアムのゴール裏へ歩を進めた。嘉悦朗社長、木村和司監督のシーズン終了あいさつの次にセッティングされた退団セレモニーだった。

「生意気でわがままな自分を応援してくれて、ありがとうと言いたい。バカで生きてきましたけど、応援してくれたからマリノスの試合を1試合1試合、気持ちを込めて戦った」

95年から16年間、横浜一筋だった。戦力外通告による非情な退団劇に悔しさをかみしめ、感謝の言葉を口にした。そして言葉を詰まらせながら、こう続けた。

「「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高なところを見せたいので、これからも続けさせてください」。

深々と頭を下げて、横浜の背番号3のユニホームと別れを告げた。

翌年、当時JFLだった松本山雅に加入。横浜時代と同じ3番を付け、DFとしてチームをけん引した。同年7月、Jリーグを含めて公式戦通算400試合出場を達成した後、突然の死を迎えた。8月2日朝、松本市でのチーム練習中に倒れ、救急搬送された。意識が戻ることがないまま、2日後に急性心筋梗塞で帰らぬ人となった。

12年1月、松田さんのメモリアルゲームが開催された。人柄を物語るようにそうそうたるメンバーが集結した。井原正巳、川口能活、中沢佑二、中村俊輔ら横浜ゆかりの選手たちと宮本恒靖、服部年宏、中田英寿、福西崇史、藤田俊哉、中山雅史、カズら対戦した仲間たちが対戦。ピッチでお別れを惜しむように会場を盛り上げた。

松田が「本当にサッカーって最高なところを見せたい」と叫んだ日産スタジアムに「ナオキ!ナオミ!ナオキ、オレッ!」のコールが鳴り響いた。

横浜は松田さんの死後、背番号3を永久欠番とした。今月22日から31日まで、松田さんのチャリティーユニホームを受注販売中だ。売り上げの利益全額が神奈川県を通じ、新型コロナウイルス治療の最前線に立つ医療従事者の支援にあてられることになっている。松田さんの「サッカー最高」は形を変え、今も生き続けている。

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松田直樹 34歳没 群馬県桐生市出身

 1993-1995 前橋育英高等学校

 1995-2010 横浜マリノス/横浜F・マリノス 385 (17)
 2011    松本山雅FC          15 (1)

 2000-2005 日本代表           140(1)
 
Date: 2020/06/05(金)


あの一言-25 中山

                               N-BOX
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 《サッカー、あのときの一言 》 「下痢の時と便秘の時にだけ」 5月24日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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「下痢の時と便秘の時にだけ」中山雅史

Jリーグが開幕した93年、日本代表のFW中山雅史は明るいキャラクターでチームの盛り上げ役だった。当時のオフト監督の下ではベンチスタートが多かった。もちろん、この言葉にチームの輪を乱すような意図はなく、監督の選手起用を批判したというよりは単に「オレを使え」というアピール。

いつも以上にひょうきんでカン高い声をあげた。

試合が膠着(こうちゃく)状態の時、勢いよくピッチに飛び出してチームにカツを入れた。スーパーサブの立場でも腐ることはなく、結果を残し続けた。

国際Aマッチでは日本代表歴代11位の21得点を記録しているが、そのうち途中出場で挙げた6ゴールは今も日本代表の歴代最多記録として残る(2位は本田圭佑で5点)。

「何もできない『だ・サブ』にならないように努力したい」と冗談も言っていたが、ゴン中山はまさに日本の切り札。「チョウのように舞い、ハチのように刺す。そう、それが中山雅史」だった。

1993年10月18日、ワールドカップ(W杯)米国大会アジア最終予選の第2戦イラン戦(1−2)。0−2の劣勢で、試合終了間際に1点差に詰め寄るゴールを決めた。喜ぶ間もなくボールを拾ってセンターサークルへ走り、チームを鼓舞した。こうした最後まであきらめない姿勢は、後の年代別日本代表の試合でも何度か見られるようになった。

勝てば悲願のW杯初出場が決まる同28日の最終イラク戦。中山はFWカズ(三浦知良)とともに先発した。1−1で迎えた後半24分、MFラモス瑠偉のパスを受けて勝ち越しゴールを決めた。日本初のW杯出場が大きく近づいた。

だが、その後に中山はFW武田修宏と交代。結局、後半ロスタイムに同点に追いつかれ、ベンチから転げ落ちて悔しがった。

中山雅史

PROFILE なかやま・まさし/67年9月23日生まれ、静岡県出身。178センチ・72キロ。所属クラブは、ヤマハ/磐田―札幌―沼津。J1通算355試合・157得点、J2通算12試合・0得点、J3通算0試合・0得点、日本代表通算53試合・21得点。今季で現役29年目を数える不屈のストライカー。52歳となった今も、ひたむきにサッカーへの情熱を燃やし続ける

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中山雅史 52歳 静岡県出身 1990-2003 日本代表 53(21)

  1983-1985 静岡県立藤枝東高校
  1986-1989 筑波大学

  1990-1993 ヤマハ発動機    65 (50)
  1994-2009 ジュビロ磐田   354 (157)

  2010-2012 コンサドーレ札幌  13 (0)
  2015-    アスルクラロ沼津  0 (0)

N-BOX 2000年「世界と戦う」ために名波を中心としたN-BOXを採用。
        但し、同年のFIAFクラブ選手権は中止。

 N-BOX      
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  中山  高原      
藤田     奥
   名波
服部    福西
大岩 田中 鈴木
 ヴェンズワム
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水沼貢史 「Jリーグ歴代最強チームは? と聞かれてパッと思い浮かぶのは、黄金期のジュビロ磐田」

名波浩、藤田俊哉、奥大介、福西崇史、服部年宏ら代表メンバーが揃う中盤もさることながら、前線には中山雅史と高原直泰の強力2トップ、DFラインには鈴木秀人や田中誠、大岩剛、山西尊裕、GKにはオランダ人のヴァン・ズワム。  
Date: 2020/06/04(木)


横浜フリューゲルス

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横浜フリューゲルスの解散時選手 

 GKは弱冠22歳の日本代表・楢崎正剛

 ボランチでコンビを組むのはブラジル代表>セザール・サンパイオと日本代表の山口素弘(解説者)

 左サイドには、ドリブルだけではなく精度の高いFKとロングスローも兼ね備え、その後日本代表にも選ばれる三浦淳宏(ヴィッセル神戸GM)
 右サイドにもトルシエジャパンに選出される波戸泰広。
 トップ下は天才ドリブラー永井秀樹(東京ベルディ監督)
 ツートップには21歳の吉田孝行、22歳の久保山由清の若手
 DFも前田浩二、薩川了洋(相模原コーチ)、佐藤尽

 また、この年に入団した選手の中には遠藤保仁(ガンバ大阪)がいる。そして、その遠藤とともにナイジェリアで行なわれたワールドユース準優勝メンバー手島和希、辻本茂輝、氏家英行もいた。

 さらにユースチームには、横浜F・マリノスの主力として活躍した田中隼磨(松本山雅)、坂田大輔が所属。

 チーム名変遷 

   1964年- 横浜中区スポーツ少年団(後に横浜サッカークラブに変更)
   1979年- 横浜トライスターサッカークラブ
   1984年- 全日空横浜サッカークラブ 
   1988年- 全日空サッカークラブ
   1992年- 全日空佐藤工業サッカークラブ(呼称:横浜フリューゲルス) 
        フリューゲルスはドイツ語で『翼』

    ・キャプテン翼の若島事津県が高校卒業日に入団したクラブ
    ・高校時代の中田英寿をスカウトしたJリーグ10クラブの中の一つ。

   主な成績 
 
    ・天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回  1993 1998  
    ・アジアカップウィナーズカップ:1回   1995

    ・アジアスーパーカップ    :1回   1995

Date: 2020/06/03(水)


あの一言-24 前田

1999.1.1. 
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 《サッカー、あのときの一言 》 「プライドの勝利です」 5月24日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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  前田浩二「プライドの勝利です」


Jリーグの歴史において、これほどまでに悲しき王者はいまだいないだろう。

1999年1月1日、天皇杯決勝。横浜フリューゲルスは2−1で清水エスパルスを下して賜杯を掲げた。勝敗にかかわらず、この試合を最後にクラブが消滅し、横浜F・マリノスへの吸収合併が決定していた。

他クラブへ移籍する選手も多く、この試合が苦楽を共にした仲間と戦う最後の1戦だった。横浜Fのフィナーレを優勝で飾った選手たちは万感の表情を浮かべ、抱き合った。スタンドではサポーターが青く澄んだ空と同じ青と白のフラッグをはためかせ、泣いた。

選手やサポーターには秘密のまま進んでいた合併話だった。横浜Fの経営難により、98年10月29日のJリーグ緊急理事会で吸収合併を承認された。

その後、選手は初めて厳しすぎる事実を伝えられた。街頭署名活動や当時の川淵チェアマンへの直談判など、存続を目指して限りを尽くしたが、回避はできなかった。

「フェアプレー」という言葉にこだわり続けた選手会長のDF前田は「チェアマンは10月上旬には合併の話を知っていたのに、何の情報開示もなかった。最近『合併を認めなければ、2チームが消滅していた』とか言ってるけど、そういう問題じゃないはず。すべてがアンフェアに進められたことなんですから」。

選手らは「天皇杯の優勝で見返す」と誓い合った。

合併発表後、横浜Fは9試合すべてで勝利した。

宣言通り、天皇杯の頂点まで上り詰めた。前田は「我々は合併の不当性をフェアにアピールできた。プライドの勝利です」と言い切った。

試合後にはJR新横浜駅前でサポーター約2000人に優勝を報告。終了後には新横浜プリンスホテルで初のビールかけを敢行し、最後の宴を終えた。




Date: 2020/06/03(水)


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