Jリーグ関連の記事を掲載します。

横浜フリューゲルス  2020/06/03(水)
あの一言-24 前田  2020/06/03(水)
あの一言-23 オフト  2020/06/02(火)
あの一言-22 古沼  2020/06/01(月)
あの一言-21 川渕  2020/05/31(日)
あの一言-20 澤  2020/05/30(土)
アフリカ合宿  2020/05/29(金)
あの一言-18 トルシェ  2020/05/29(金)


横浜フリューゲルス

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横浜フリューゲルスの解散時選手 

 GKは弱冠22歳の日本代表・楢崎正剛

 ボランチでコンビを組むのはブラジル代表>セザール・サンパイオと日本代表の山口素弘(解説者)

 左サイドには、ドリブルだけではなく精度の高いFKとロングスローも兼ね備え、その後日本代表にも選ばれる三浦淳宏(ヴィッセル神戸GM)
 右サイドにもトルシエジャパンに選出される波戸泰広。
 トップ下は天才ドリブラー永井秀樹(東京ベルディ監督)
 ツートップには21歳の吉田孝行、22歳の久保山由清の若手
 DFも前田浩二、薩川了洋(相模原コーチ)、佐藤尽

 また、この年に入団した選手の中には遠藤保仁(ガンバ大阪)がいる。そして、その遠藤とともにナイジェリアで行なわれたワールドユース準優勝メンバー手島和希、辻本茂輝、氏家英行もいた。

 さらにユースチームには、横浜F・マリノスの主力として活躍した田中隼磨(松本山雅)、坂田大輔が所属。

 チーム名変遷 

   1964年- 横浜中区スポーツ少年団(後に横浜サッカークラブに変更)
   1979年- 横浜トライスターサッカークラブ
   1984年- 全日空横浜サッカークラブ 
   1988年- 全日空サッカークラブ
   1992年- 全日空佐藤工業サッカークラブ(呼称:横浜フリューゲルス) 
        フリューゲルスはドイツ語で『翼』

    ・キャプテン翼の若島事津県が高校卒業日に入団したクラブ
    ・高校時代の中田英寿をスカウトしたJリーグ10クラブの中の一つ。

   主な成績 
 
    ・天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回  1993 1998  
    ・アジアカップウィナーズカップ:1回   1995

    ・アジアスーパーカップ    :1回   1995

Date: 2020/06/03(水)


あの一言-24 前田

1999.1.1. 
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 《サッカー、あのときの一言 》 「プライドの勝利です」 5月24日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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  前田浩二「プライドの勝利です」


Jリーグの歴史において、これほどまでに悲しき王者はいまだいないだろう。

1999年1月1日、天皇杯決勝。横浜フリューゲルスは2−1で清水エスパルスを下して賜杯を掲げた。勝敗にかかわらず、この試合を最後にクラブが消滅し、横浜F・マリノスへの吸収合併が決定していた。

他クラブへ移籍する選手も多く、この試合が苦楽を共にした仲間と戦う最後の1戦だった。横浜Fのフィナーレを優勝で飾った選手たちは万感の表情を浮かべ、抱き合った。スタンドではサポーターが青く澄んだ空と同じ青と白のフラッグをはためかせ、泣いた。

選手やサポーターには秘密のまま進んでいた合併話だった。横浜Fの経営難により、98年10月29日のJリーグ緊急理事会で吸収合併を承認された。

その後、選手は初めて厳しすぎる事実を伝えられた。街頭署名活動や当時の川淵チェアマンへの直談判など、存続を目指して限りを尽くしたが、回避はできなかった。

「フェアプレー」という言葉にこだわり続けた選手会長のDF前田は「チェアマンは10月上旬には合併の話を知っていたのに、何の情報開示もなかった。最近『合併を認めなければ、2チームが消滅していた』とか言ってるけど、そういう問題じゃないはず。すべてがアンフェアに進められたことなんですから」。

選手らは「天皇杯の優勝で見返す」と誓い合った。

合併発表後、横浜Fは9試合すべてで勝利した。

宣言通り、天皇杯の頂点まで上り詰めた。前田は「我々は合併の不当性をフェアにアピールできた。プライドの勝利です」と言い切った。

試合後にはJR新横浜駅前でサポーター約2000人に優勝を報告。終了後には新横浜プリンスホテルで初のビールかけを敢行し、最後の宴を終えた。




Date: 2020/06/03(水)


あの一言-23 オフト

先発 選手交代
 59分 長谷川健太→福田正博
 81分 中山雅史 →武田修宏
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 《サッカー、あのときの一言 》 「負けた。最後の最後にやられた」 5月23日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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「負けた。最後の最後にやられた。これがサッカーだ」。1993年(平5)10月28日、日本代表のワールドカップ(W杯)初出場が断たれ、日本中が悪夢にうちひしがれた「ドーハの悲劇」。現実を見つめることが難しい状況でハンス・オフト監督(当時46)が発した敗者の弁だった。

92年5月に就任した指揮官は、W杯出場だけを見据えていた。同年のダイナスティ杯やアジア杯で優勝しても「まだまだ本当の勝負はこれから」。アジア杯後には「予選を考えると、勝ってマークが厳しくなるよりも、ベスト4くらいでよかった」とまで言い放つほど。W杯出場以外はすべて過程にすぎなかった。

選手への意識改革も取り組んだ。役割を分担して各ポジションの仕事を明確にし、それだけを全うするよう求めた。また、目だけで意思疎通する「アイコンタクト」や、常にボール保持者に2人がサポートしてできる三角形「トライアングル」などを浸透させた。時には厳しい要求に選手から反発も買ったが「同じ目標のため、チームは家族のようにならなくてはいけない」とチームを1つにまとめ上げ、快進撃を続けたことから「オフト・マジック」と評された。

ドーハのアルアリ競技場で行われたアジア最終予選最終節でイラクと対戦した。勝てば日本初のW杯出場が決まる運命の一戦で、カズ(三浦知良)と中山が得点。2−1とリードして後半ロスタイムに入ったが、まさかの同点弾を許して手中に収めていたW杯の切符が逃げていった。同点から約1分後、無情のホイッスルが鳴った。W杯への夢は完全に断たれ、ラモスら選手はピッチへ崩れ落ちた。

オフト監督は失意が渦巻くピッチへ向かった。うなだれる選手へ寄り添い、ロッカールームへと引き上げた。悔しさを押し殺し「負けた。最後の最後にやられた。これがサッカーだ」と現実を受け止めた。

大目標だった「W杯初出場」の使命は達成されなかった。だが、ダイナスティ杯やアジア杯、アジア・アフリカ杯で初優勝をもたらした。W杯出場以外は、日本サッカー界に新たな歴史を築いた。

その後の日本代表は98年フランス大会から2018年ロシア大会まですべてのW杯に出場し続けている。日本サッカーはW杯出場が「当たり前」と思われるほどに急成長した。輝かしい成績を残している一方で、オフト監督が「負けた(2−2の引き分け)」と評した「ドーハの悲劇」は今でも強い印象を残す。


ワールドカップ アメリカ大会 最終予選 1993年10月28日

出場メンバーは、今何を・・・全員がサッカーの仕事を、

 現役  横浜FC 三浦知良

 監督  長谷川健太(FC東京) ラモス瑠偉(ビーチサッカー日本代表監督)
      森保一(日本代表監督)

 コーチ 松永成立(横浜F) 井原正巳(柏コーチ) 

 解説者 中山雅史 武田修宏 福田正博 柱谷哲二
  
 指導者 吉田光範 勝谷寿延 堀池巧 



Date: 2020/06/02(火)


あの一言-22 古沼

 帝京高校時代          元国見監督・小峰忠敏と‥ 
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 《サッカー、あのときの一言 》 古沼貞雄「打ちのめされたところから…」 5月22日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。
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「打ちのめされたところから、またトレーニングの1歩が始まるんです」 

19年1月5日。冬の風物詩、高校選手権の準々決勝。矢板中央(栃木)のアドバイザーとしてベンチに入った古沼貞雄が試合後につぶやいた。

相手は毎年、優勝候補に名があがる青森山田。先制点を奪うも、自慢の堅守を破られた。試合終了の笛を聞いてピッチに倒れ込む選手たちを、ベンチから立つことなくじっと見つめていた。

帝京(東京)を率いた1965年から2008年までで選手権優勝6度、準優勝を3度。高校総体でも3度優勝と、一時代を築いた名伯楽だ。

80歳を超えた今も、ピッチでボールを蹴ることもある。現在はアドバイザーとしてだが、指導者として高校選手権に挑戦し続けて今年で60年目となる。矢板中央は前回大会で3度目の4強に進出。その先の決勝、そして頂点へ、古沼氏も変わらない姿で現場に立つ。



昭和50年(1945)高校サッカー 帝京 決勝戦ダイジェスト
Date: 2020/06/01(月)


あの一言-21 川渕

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 《サッカー、あのときの一言 》「オシムって言っちゃったねえ」 5月21日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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「オシムって言っちゃったねえ」。06年W杯ドイツ大会から帰国したその足で行われた総括会見で、疲労マックスの(?)川淵三郎会長は口を滑らせた。

後任監督の五輪代表との関わり方を問われたときだった。「(五輪代表)監督はあくまで反町。スーパーバイザー的な立場、総監督として『オシム』が…あっ、オシムって言っちゃったねえ」。交渉中だった当時J1のジェフユナイテッド市原・千葉監督の名前を、うっかり漏らしてしまった。

その後会長は「うそをついて取り消すのも…。どうするかねえ」と取り乱し、会見は一時中断。千葉の社長に電話で謝罪するなどして、約10分後に再登壇した際には「広報部長から『史上最大の失言』と言われた」としょんぼりしていたという。とはいえ、困り顔で「聞かなかったことにはならないだろうねえ」と話す会長に、会場の報道陣からは笑いが漏れた。世間から好意的に受け取られたのも、本人の人柄ゆえかもしれない。

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川渕のフライング発言は結果的に許されたが、史上最強のチームと言われた「ドイツW杯の1分2敗でのグループ敗戦の分析・検討なしでの『新代表監督発表』は、従来の監督選出と同じで 分析なき監督の選出として問題となった。
Date: 2020/05/31(日)


あの一言-20 澤

                  澤・ワンパックゴールデンシューズ  いつかグランドで
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 《サッカー、あのときの一言 》「苦しい時は、私の背中を見て」 5月20日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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「苦しい時は、私の背中を見て」。日本女子サッカー界のレジェンド澤穂希さんが初めてこの言葉を口にしたのは、08年北京オリンピック(五輪)の3位決定戦だった。

相手は当時FIFAランキング2位だった格上のドイツ。勝てば初のメダル獲得という一戦。緊張した面持ちのチームメートを前に、当時29歳の澤さんは語りかけた。

試合はドイツに0−2で敗れてメダル獲得を逃したが、澤さんはこうした悔しい経験がのちの11年ワールドカップ(W杯)ドイツ大会優勝などにつながったと振り返る。

澤さんは93年に15歳で代表デビュー。注目度がまだ低かった女子サッカーを支え、仲間と地道に積み重ねた努力が実を結んだのはデビューから17年が経った10年のアジア大会初優勝から。「全てがいい時代だけじゃなかった。でも、そういう悔しい思いもあるからこそハングリー精神で頑張れた」。

翌年の11年にW杯初優勝、12年には4年前に涙をのんだ五輪で悲願の銀メダル獲得。14年には15度目の出場で初のアジア杯制覇も果たすなど、なでしこジャパンは一気に開花の時を迎えた。

澤さんは常に言葉だけでなく、行動でもチームメートに指針を与える存在だった。控えに回ることが多くなった15年W杯カナダ大会でも積極的に仲間に話しかけて経験を伝えた。11年にFIFA女子最優秀選手にまで輝いたレジェンドの姿勢は、今でも多くの選手が尊敬している。

15年限りで引退後は17年1月に誕生した長女の子育てに励みながら、解説者としてなでしこを見守る。「今は技術のある子が多いし、1試合やるごとに成長していっているんじゃないかなと思います」。常に後輩を気にかける気持ちは変わらない。澤さんが背中で引っ張った、なでしこの歴史は日本女子サッカーの財産となっている。

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 澤 穂希 41歳 東京都出身

  1991-1998 読売SCベレーザ/読売JSCベレーザ/読売西友ベレーザ/読売ベレーザ  136 (79)
  1999-2000 C・D・ダイヤモンズ 
  2000-2003 アトランタ・ビート 55 (13)
  2004-2008 日テレ・ベレーザ 85 (47)
  2009-2010 ワシントン・フリーダム 41 (6)
  2009-2010 日テレ・ベレーザ 4 (2)
  2011-2015 INAC神戸レオネッサ 94 (12)

 日本代表 1993-2015 205(83)6度のW杯と4度の五輪に出場

  2011年 - 2011 FIFA女子ワールドカップ (優勝)  ・東日本大震災
  2012年 - ロンドンオリンピック       (準優勝) 
  2015年 - 2015 FIFA女子ワールドカップ (準優勝)



『あの時一言-19』は初代チェアマンの川渕三郎氏のすべてが整ってから動くのでなく…「Jリーグは走りながら考える」…


Date: 2020/05/30(土)


アフリカ合宿

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アフリカ遠征 アフリカ・ブルキナファソでの孤児院訪問は黄金世代の意識を変えた…。 

 1999 FIFAワールドユース選手権ナイジェリアで、日本はFIFAの国際大会で初めて決勝に進出、
 決勝では、小野を累積警告で欠きスペインに0-4で敗れ準優勝獲得。

 その大会2か月前のアフリカ合宿で目の当たりにした光景は…

https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201904080009-spnaviで検索
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FIFA World Youth Championship Nigeria 1999 1999.4.3
〜4.24

  優勝:スペイン  準優勝:日本  3位:ナイジェリア、マリ

日本は小野伸二、本山雅志、高原直泰、稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男、酒井友之、中田浩二らを擁して勝ち進み、アジア勢としては1981年大会のカタール以来となる決勝進出を成し遂げた。この日本の決勝進出はFIFA主催の世界大会としては男子及び女子、そして全ての年代の日本代表を通じて初の快挙。

準決勝 ウルグアイ 1-2 日本 



 グループリーグ ・1-2 カメルーン ・3-1 アメリカ ・2-0 イングランド

 ・ラウンド16 1-1 5PK4 ポルトガル ・準々決勝 2-0 メキシコ ・準決勝 2-1 ウルグアイ       
Date: 2020/05/29(金)


あの一言-18 トルシェ

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 《サッカー、あのときの一言 》4年間の素晴らしい冒険は終わった 5月19日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

 ※『あの一言-15』は森保監督の「目標が私だけのものか」U22日本代表 0-2 U22コロンビア代表の試合後にオリンピック世代に向けた言葉。

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「4年間の素晴らしい冒険は終わった」

日本代表のフィリップ・トルシエ監督の表情には“赤鬼”とも称された厳しさ、冷徹さは消えていた。試合中から降り注いだ雨でぬれたメガネの奥で泣いていた。下を向く選手たちにねぎらいの言葉をかけ、背中をたたいた。

02年6月18日、宮城スタジアム。02年日韓ワールドカップ(W杯)決勝トーナメント1回戦となった日本−トルコ戦は0−1で敗れた。

史上初の8強入りを逃した直後、長い旅路を終えた感覚があったのだろう。「今日の涙は負けたという意味ではない。4年間の素晴らしい冒険は終わった。ベスト16に進み、歴史はつくれた。4年間の成果は出せた。いろいろあった4年間の仕事が終わったという意味だ」。

日本代表監督のラストマッチは「奇策」に出た。快進撃を続けた予選3試合の2トップ(鈴木、柳沢)ではなく、公式戦で1度も試したことのない西沢、三都主を起用。何度も好機をつくりながらゴールを奪えずに負けた。「同じチームでやるのはすごく簡単なこと。守りに入ることはしたくない」との信念を最後の最後まで曲げなかった。

「フラット3(DF3バックを水平に並べる)」「オートマティズム」など戦術の持論をはじめ、メディア批判から「スターシステム(メディアによる選手スター扱い)」などの言葉も多用した。

非公開練習も連発し、98年9月の監督就任から4年間、哲学を貫き通した。一方でオリンピック(五輪)代表監督を兼務し00年シドニー大会では32年ぶりの決勝トーナメント進出に貢献し、稲本、小野らを育成。時に若手の欧州クラブ進出の橋渡し役も務め、日本代表強化につなげた功績は大きかった。

その後、フランス・マルセイユ監督、FC琉球総監督などのクラブ指揮を挟みながらカタールやナイジェリアの代表監督も務めたものの、W杯本大会で指揮したのは02年が最後。

18年にはベトナムのアカデミー育成の役職に就き、19年9月にはU−19(19歳以下)同国代表監督を務めるかたわら、ボルドーワイン「ソルベニ」を手掛けるなど、65歳になった現在も新たな「冒険」を続けている。

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 日韓W杯 

 グループリーグ ・2-2 ベルギー G:鈴木隆行 稲本潤一 ・1-0 ロシア G:稲本潤一
            ・2-0 チェジニア G:森島寛晃 中田英寿

 ベスト16 ・0-1 トルコ

Date: 2020/05/29(金)


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