Jリーグ関連の記事を掲載します。

メキシコリーグ  2020/05/23(土)
Jリーグ  2020/05/23(土)
あの一言-10 西野朗  2020/05/23(土)
あの一言-9 オシム  2020/05/22(金)
あの一言-4 ラモス  2020/05/21(木)
あの一言-7 中村  2020/05/21(木)
あの一言-6 オフト  2020/05/21(木)
あのときの一言-8  2020/05/21(木)


メキシコリーグ

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 メキシコリーグ、後期戦の打ち切り決定…優勝チームも決めず

メキシコ1部のリーガMXが2019-20シーズンのリーガMXクラウスーラ(後期リーグ)打ち切りを決定した。

先日、サントス・ラグナの選手8名から新型コロナウイルスの陽性反応を確認したリーガMX。その後、新たに4名の陽性反応も検出された。

リーガMXは22日の臨時総会で新型コロナウイルス感染拡大に伴う人々の健康を守るため、リーガMXクラウスーラの打ち切りで合意した。

リーガMXクラウスーラは3月15日の開催を最後に中断に入り、10試合を消化。クルス・アスルが首位だったが、優勝チームを決めないという。

ただ、CONCACAFチャンピオンズリーグ出場権に関しては、延期前まで1位のクルス・アスルと2位のクラブ・レオンに与えられるようだ。

また、2020-21シーズンのアペルトゥーラ(前期リーグ)は現時点で地元保険当局の許可が出るまで無観客開催を見込んでいる模様だ。

なお、『ESPN』によると、来季のアペルトゥーラは7月中旬から下旬に開幕する予定。今後5年間の昇降格なしで合意に至っている。

在籍日本人選手

  本田圭佑:2017-2018 CFバチューカ 29(10) 
 
  小野悠斗:2010-2014 メキシコ2部4クラブ 77(16) 現在はタイリーグ在籍  
         小野裕二(G大阪)の兄 横須賀市出身
Date: 2020/05/23(土)


Jリーグ

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 Jリーグ、無観客再開へ 村井チェアマン、専門家の提言「受け入れ」

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

Jリーグは22日、オンラインでクラブ代表者による実行委員会を開いた。同日に行われたプロ野球との「新型コロナウイルス対策連絡会議」での専門家の提言を踏まえ、2月下旬から中断する公式戦の再開後は当面の間、無観客で実施する方向となった。最短で6月末のリーグ再開に向け、選手の感染の有無を調べる事前検査の導入も検討する。

サッカーができる環境が整ってきた。新規の感染者数が抑えられてきたことで専門家チームは「現在は開催できる状況にある」とリーグ再開へゴーサインを出した。ただ、当面は無観客試合が再開の条件になった。
Date: 2020/05/23(土)


あの一言-10 西野朗

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 西野 5月9日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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<サッカー、あのときの一言〜10>

「私は勝てると信じていた。選手たちは私の注文通り、タフにアグレッシブに戦ってくれた」

1996年7月21日、米マイアミでのアトランタ・オリンピック(五輪)男子サッカー1次リーグ第1戦。日本が1−0でブラジルを破り、「マイアミの奇跡」と呼ばれる史上最大の番狂わせを演じた。だが、試合後の西野朗監督(当時41)のコメントは“想定内”を強調した。

後半27分にMF路木の左クロスが、FW城と相手GKジダ、DFアウダイールの間に入り、交錯して生まれたこぼれ球をMF伊東が右足で蹴り込んだ。その1点をGK川口中心に気迫あふれる守備で封じた。日本の4本に対し、ブラジルは28本のシュート。まさに攻められ続けた中での奇跡の勝利だった。

その2年前、94年ワールドカップ(W杯)米国大会でブラジルが通算6度目の世界一に輝くが、日本がW杯に初出場するのは、アトランタ五輪より2年後の98年フランス大会になる。世界的には日本の評価は高くなかった。

五輪でもメキシコ大会の銅メダル以来、日本はアトランタ大会で28年ぶりの本大会出場を果たしたばかりだった。王国に勝つ予想は皆無に等しかった。

だが西野監督は勝利のシナリオをひそかに練った。左ウイングの服部をボランチで起用し、MFジュニーニョのマーク役に。ボランチの広長は突然、控えに回った。左ウイングには出場経験の少なかった路木を入れた。守備優先で戦った上で、少ない得点機をものにして競り勝つ作戦だった。

ブラジルの直前までの試合や動向を探り、最終ラインに不安定さがあることを察知。西野監督や山本昌邦コーチ、偵察担当だった松永英機・日本協会強化委員らの眼力が光った。だから西野監督は、この試合に「奇跡」や「奇策」といった言葉が使われることを嫌った。

「とにかくディフェンスができないと勝負にならなかった」と西野監督。当時19歳で頭角を現し始めた「ヒデ」こと、MF中田は「勝つつもりなんてなかった」と、冗談にも聞こえないコメントを残したのも印象的だった。

この大会は結局、2勝(1敗)した日本が1次リーグ敗退という史上初のケースになった。ブラジル戦のように守備を前提にした戦法が、日本協会から「消極的」とされたことが、西野監督の後の指導者生活に大きな影響を与えた。

02年から指揮を執ったガンバ大阪では超攻撃的なポゼッションサッカーを貫き、多くのタイトルを獲得。18年W杯ロシア大会でも、日本をあと1歩で史上初のベスト8というところまで押し上げた。西野朗という1人の監督だけではなく、日本サッカー史上にも大きな影響を与えた“奇跡”だった。




Date: 2020/05/23(土)


あの一言-9 オシム
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 オシム「日本代表の日本化」/あのときの一言〜95月9日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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オシム あのときの一言 『日本代表の日本化』 

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06年7月21日。W杯ドイツ大会敗退後、日本代表再建を託されたイビチャ・オシム監督(当時65歳)が就任会見で日本中に発信した言葉だ。

今でこそ、日本らしいサッカーを口にする代表監督が多いが、それまでは“強国のサッカーを見習う”ことで、世界に近づくことができると思う風潮があった。

この「日本化」は、その会見の中で、オシム監督が説明している。

「これから日本代表を強化するにあたり、まず最初にすることは、現在の日本代表のサッカーを日本らしいサッカーにすることです。日本らしいサッカーとは、他の国にはない日本人の持ち味を最大限に生かしたサッカーをするということです。日本の特長は、敏しょう性や攻撃性やアグレッシブさ、細かい技術です。そして初心に戻らなければならない。そうすれば、日本人らしさが出るはずです」

オシム監督は日本人の思考能力、危機管理能力、団結力を高く評価した。

選手に「考える」を徹底させ、伸ばしていった。スタメン11人を選び、フォーメーションは伝えずにピッチに送り出す。相手が1トップなら4バック、2トップなら3バックと、ボランチ阿部勇樹が中心となって自分たちでシステムを組んだ。

試合中の「水をくむ人、運ぶ人、飲む人」を自分たちで考えさせた。練習時には7色のビブスを用意し、選手に選ばせて、やるべきことを考えさせたこともある。

オシム時代の代表は、だれもが複数のポジションをこなすことを当然と思っていた。水をくむ人が、時には運ぶ人になり、飲む人にもなる。決定的なパスを出すことが多かったMF遠藤保仁が汗をかいて守備に専念することも珍しくなかった。

それまで代表でレギュラーを張っていた多くの選手が青いユニホームを脱いだ。ジェフ千葉のメンバーが多く選ばれ「日本代表の千葉化」と冷やかされ、代表戦のチケットが売り残った時期もあった。

だが目まぐるしくポジションを変え、相手の隙を見つけようとする「日本化」は徐々に浸透してきた。しかしオシム監督が、就任1年4カ月後の07年11月16日午前2時すぎに急性脳梗塞で倒れ、W杯で花開くことはなかった。



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 Jリーグ誕生から日本監督代表推移

  1918.09       森保 一
  2018.05〜2018.07 西野 朗      
  2015.03〜2018.04 ハリルホジッチ       国籍 ボスニア・ヘルツェゴビナ、フランス
  2014.08〜2015.02 ハビエル・アギーレ     国籍 メキシコ、スペイン
  2010.09〜2014.06 アルベルト・ザッケローニ 国籍 イタリア 
  2011.09       原 博美(監督代行)
  2007.12〜2010.06 岡田 武史   
  2006.08〜2007.10 イビチャ・オシム
  2002.09〜2006.06 ジーコ            国籍 ブラジル
  1998.10〜2002.06 フィリップ・トルシェ     国籍 フランス コートジボワール
  1997.10〜1998.06 岡田 武史 
  1998.01〜1997.10 加茂 周
  1994.05〜1994.10 パウロ・ロベルト・フォルカン 国籍 ブラジル
  1992.05〜1993.10 ハンス・オフト
Date: 2020/05/22(金)


あの一言-4 ラモス
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 「もう1度、W杯を目指したい」/あのときの一言5月4日 日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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<サッカー、あのときの一言〜4>

「魂でサッカーを愛した男を覚えていてほしい」。誰よりも日本サッカー界を愛し、情熱を注いだラモス瑠偉(当時42)が、引退試合後に声を詰まらせて語った。

1999年8月23日、舞台は旧国立競技場。ラモスオールスターズの一員として先制点の起点になるなど、90分間出場して4万8142人が駆けつけたサポーターに最後の勇姿を届けた。

Jリーグ選抜相手に3−1の勝利に貢献した後、静まりかえった会場の真ん中で「本当に(日本での)22年間はあっという間でした。

初めてこの国立で試合をした時、観衆はたしか300人か、400人。今こうして、いろんな人の努力と協力で、満員のファンの前で引退試合ができました。私は本当に幸せです。本当に本当に感謝しています」と、何よりも大事にしていたサポーターへの感謝を伝えた。

77年に母国ブラジルから日本へ「お金のためだけに」やってきた。日本サッカー界の発展など、当時は考えてもいなかった。だが、32歳とベテランの域に達した89年に日本人へ帰化。

日本初となるワールドカップ(W杯)出場が目標となった。結果は日本サッカー界で最も有名な敗戦「ドーハの悲劇」。勝てばW杯出場が決まるイラク戦で、後半ロスタイムに2−2となる同点弾を決められ、あと1歩で夢が断たれた。

涙をこらえながら「もう1度生まれ変わったら、もう1度日本に来て、早く帰化して、もう1度、W杯を目指したい」と言った。最後まで情熱は衰えず、日本への愛が込められていた。



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Date: 2020/05/21(木)


あの一言-7 中村
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 中村俊輔/あのときの一言

    …‥‥「悔しいと思えばまた強くなれる
5月7日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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 あのときの一言

「悔しいと思えば、また強くなれるから」。02年5月17日、ワールドカップ(W杯)日韓大会の日本代表発表でMF中村俊輔が落選した。日本代表発表は異例の形で行われた。

トルシエ監督はコメントを発表しただけで、リストを読み上げたのは日本サッカー協会のスタッフだった。中村は自宅のテレビで落選を知ると、その1時間半後には、横浜のクラブハウスで待ち受ける約100人の報道陣に対応した。

00年にシドニーオリンピック(五輪)、JリーグMVPと輝かしい実績を積み上げてきたが、W杯前年の01年はけがに泣かされた。5月に両股(こ)関節内転筋付着部炎と悪性の風邪を患い、約70日のブランクを経て7月に復帰したが、本調子とは程遠く、コンフェデレーションズ杯など代表から遠ざかった。

W杯イヤーで再び本来のプレーを取り戻したが、代表では本来の「トップ下」でなく「左サイド」が主戦場だった。代表発表前の最後国際親善試合2試合で、トップ下でもプレーしたが、指揮官の胸には響かなかった。

落選後の取材対応は冷静だった。悔しさは? と問われると、当時23歳の中村はこう答えた。

「今はない。でも、テレビで見たりすれば、去年にケガとかで出られなかったコンフェデレーションズ杯の時のように、悔しくなると思う。やっぱり、第三者的には見られないし、そうして悔しいと思ったらまた強くなれるから」。
Date: 2020/05/21(木)


あの一言-6 オフト

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 『ハンス・オフト』 「サッカーにマジックはない」

  /あのときの一言「サッカーにマジックはない」
5月6日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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 あのときの一言

「サッカーにマジックはない。あるのはロジック(論理)だけだ」。

元日本代表ハンス・オフト監督の口癖であり、メディアやファンに対する反発の言葉でもあった。

初の外国人監督として日本代表を率い、92年のアジア杯で初優勝。その手腕は「オフト・マジック」と呼ばれた。だが本人は「代表の力は、その国のサッカーの力。マジックはない。あるのはロジックだけだ」と言った。

オフト監督の練習、戦術、選手起用には必ず明確な理由、狙いがあった。オランダ人監督は選手に規律を守らせ、役割分担を与えた。

ピッチ上では「アイコンタクト」「トライアングル」「3ライン」「コーチング」など今では当たり前のことを徹底。サッカー不毛の地に持ち込まれた目新しい理論を、選手だけでなく、記者もファンも学んだ。

代表チームが初めてアジアを制したこともあって、その指導はまるでマジックのように思えたが、オフト監督にとってはタネも仕掛けもない、代表を強くするための基本にすぎなかった。

Jリーグの開幕の1年前

カズ(三浦知良)、ラモス瑠偉らを擁した日本は着実に実力を高め、93年のJリーグ開幕とともに躍進した。94年ワールドカップ(W杯)米国大会のアジア1次予選を7勝1分けの負けなしで突破し、最終予選の第4戦では宿敵韓国も下した。

だが、勝てば初のW杯出場が決まる最終イラク戦、いわゆる「ドーハの悲劇」で、その夢は散った。それでも、ここでまかれた種は4年後に結実。夢は現実となった。

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2016/07/28



ハンス・オフト 74歳 オランダ出身 1964-1970 フェイエノールト
  
 監督歴 

  1976 オランダ代表 (Youth)
  
  1982     ヤマハ (Assistant)  日本との関わりは日本高校選抜の欧州遠征
  1984-1987 マツダ (Assistant)  マツダ(現サンフレチェ広島)のコーチ就任
  1987-1988 マツダ
  1992-1993 日本代表
  1994-1996 ジュビロ磐田
  1998     京都パープルサンガ
  2002-2003 浦和レッズ
  2008     ジュビロ磐田 9月に監督就任、入れ替え戦勝利J1残留   

   Jリーグ通算100勝の記録を持っており、これは2012年にネルシーニョに抜かれるまで、
   Jリーグの外国人監督として最多であった。

   2018年終了時

   1位:174勝 ミハイロ・ペトロヴィッチ(札幌) 2位:173勝 ネルシーニョ(柏) 
   3位:142勝トニーニョ・セレーゾ(鹿島)     4位:103勝 ストイコビッチ(名古屋) 
   5位:100勝 ハンス・オフト(磐田‥) 
Date: 2020/05/21(木)


あのときの一言-8

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 << ドゥンガ >>/あのときの一言

    …‥‥「ボールは汗をかかない」/あのときの一言
5月8日刊スポーツ

名場面に名言あり。サッカー界で語り継がれる記憶に残る言葉の数々。「あの監督の、あの選手の、あの場面」をセレクトし、振り返ります。

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 あのときの一言

「ボールは汗をかかない」。95年7月、ブンデスリーガ・シュツットガルトからジュビロ磐田に加入した当時の現役ブラジル代表主将のMFドゥンガが、自らの哲学「発想と規律のバランスが重要」とのメッセージを込めて発した言葉だった。

同8月の第2ステージ鹿島戦でJリーグデビュー。磐田の攻撃力は数段アップしたが、相手の2倍以上のシュート数を放ちながら敗戦が続いた。

日本の夏独特の高温多湿、降雨も多くピッチが重いコンディションの中、プロ1年目の名波、2年目の藤田、服部、田中、恥骨結合炎による1年離脱から復帰した中山らが90分間、ガムシャラに走った。同9月のホーム広島戦。磐田はシュート14本を放ちながら、4本の相手に1−2で負けた。唯一のゴールはドゥンガのJ初得点だった。チームメートの働きを評価しつつ、こう続けた。

「ブラジルに昔から伝わることわざだが、ボールは汗をかかない。このコンディションなら、ボールを走らせる必要があるんだ」。

母国の優勝に導いた94年米国ワールドカップ(W杯)。ドゥンガは1試合平均で300本近いパスを出した。通常のMFが200本ほどと言われた当時、群を抜く数字だった。気候、ピッチ、相手のコンディションを見極め、ボールを動かす。

ヨハン・クライフの名言「ボールを動かせ、ボールは疲れない」にも似たドゥンガのひと言から2年後に試合巧者のプレーを意識させた「勝利至上主義」が、ポテンシャルと発想力を兼ね備えた若手たちと融合。97年第2ステージで初優勝し、そのまま年間王者となった。磐田の「黄金時代」の始まりだった。

「ボランチ」というポジション名も日本に定着させたドゥンガは98年限りで磐田を退団し、翌99年に母国で現役引退。2度ブラジル代表監督を務めた一方で、現役時代から継続する社会福祉活動に力を入れてきた。今年も新型コロナウイルス感染拡大で生活に苦しむ母国の人々に食料を届け、存在感を示している。